2025.12.23 Tue.
書けない日を、敵にしない
書けない日というのは、たまに来る。
机に向かっても、言葉がまったく降りてこない日。
昔は焦っていたけれど、最近は「今日はそういう日か」と思うようにしている。
人間にも天気がある。
曇りの日は、無理に晴れにする必要はない。
霧のままでいいし、風が止まっていてもいい。
書けない日には、無理に文章をひねり出すより、
机の上を少し片づけたり、
本棚の前を歩いてみたり、
コーヒー豆を多めに挽いてみたりする。
すると不思議と、「明日は書けるかもな」と自然に思えてくる。
創作は、落ち込むより、待ったほうがいい。
待つ時間もまた、書く時間の一部だ。
なぜ、こんなことを書いているか?
もちろん、書けなかったからです。
なので、落ち込むより、今日は「待ちの時間」だったと自分に言い聞かせる。
焦らないでいいよ、と自分に言ってあげることも、大事なことな気がする今日この頃。
お察しの通り、半分強がりです。でも、いいじゃないですか。
2025.12.20 Sat.
余白は必要
今日の午後、予定がぽっかり空いた。
前までの僕なら「うわ、どうしよう、何かしなきゃ」と焦っていたと思う。
でも今日はソファに座って、ただ部屋をぼんやり眺めてみた。
すると不思議なもので、
カーテン越しの光の形とか、
観葉植物の影の揺れとか、
冷蔵庫のモーターが小さくうなる音とか、
普段ならまったく意識しないものが、突然すごく存在感を持って見えてきた。
「余白って、埋めるためにあるんじゃなくて、気づくためにあるんだな」
そんなことをふと思った。
いや、昔から知っていたのだけど、最近ちょっとこんを詰めすぎて忘れてしまっていた。
思い出した」という表現の方が正しいかも。
予定でパンパンにしなくても、
空白があると、生活の細かな景色がちゃんと現れる。
そして余白がある日は、なんだか自分の気持ちまで少しやわらかい。
たぶん大人になって良かったことのひとつは、
「なんにもしない時間」を悪いものだと思わなくなったことだ。
空白も生活の一部で、必要な呼吸みたいなものなんだと思う。
そんな今日はとてもいい一日だった、と言ってみるのだった。
2025.12.18 Thu.
夕方の白い息
夕方、買い物帰りにふっと白い息が出た。
冬の最初の白い息は、なぜか毎年うれしい。
やっと季節が動いたような、静かな宣言。
試しにもう一度、ふうっと吐いてみる。
やっぱり白い。
通りすがりの人がこちらを見たので、
慌てて歩きだした。
白い息を確認している大人。
なかなかにおかしな人である。
でも冬の入口って、こういう「子どもみたいな行動」を自然に許してくれる。
空気が澄むと、心も素直になるのだろう。
家に帰ると、窓ガラスがほんのり曇っていた。
息が白くなるより先に、
家が冬を迎え入れていたらしい。
ようこそ、冬。
2025.12.12 Fri.
猫とヒーター
夜、書斎のヒーターをつけたら、
ジウがどこからともなく現れて、すっと前に座った。
その姿があまりにも当然みたいで、こちらの方が「すみません、どうぞ」と言いたくなる。
しばらくすると、ジウの横に、トトも来た。
冬のはじまりは、猫たちの「集会」が増える季節だ。
ただじっと熱を浴びているだけなのに、
二匹は何か深刻な会議をしているように見える。
「本日の議題:ヒーターとの最適距離」
そんな字幕が浮かび上がりそう。
猫の冬は、静かで、あたたかくて、どこか人間より賢い。
その輪の中に、そっと混ざりたくなる。
でも、混ざると2匹とも去っていくという悲しさよ。
2025.12.08 Mon.
書けた日の、静かなごほうび
今日は、珍しく執筆がするすると進んだ。
書ける日は、体の中に一本だけ「透明な管」が通っているみたいで、
そこから言葉が不思議と自然に落ちてくる。
別に気合いを入れたわけでもない。
コーヒーの味が少し良かったとか、
机の上がたまたま片づいていたとか、
そんな程度の理由で、なぜか書けたりする。
書けたときの小さなごほうびは、書き終えたあとの静けさだ。
窓の向こうで風が揺れる音が、いつもより少しだけ優しく聞こえる。
心が解けて行き、なんだか世界に対して優しくなれるような気がする。
もしかしたらこの気持ちを味わいたくて、作家なんて奇妙な仕事をしているのかもしれない。
一人で静かに幸せになれるって、案外とても幸福なことだと思う。
「よし、今日はもう終わりだ」
そう思えるだけで、十分に満たされる。
というわけで、いい日でした!
2025.12.06 Sat.
小さな鍋の夜
夜ごはん、今日は小さな鍋にした。
白菜と豚ときのこだけの、素朴なやつ。
でも、湯気が立ちのぼるだけで、
部屋の空気がやさしくなる。
鍋って、食事というより“儀式”に近い。
ふたりで箸を伸ばして、
どちらともなく火加減を調整して、
「そろそろかな」と目で合図を送り合う。
味がどうこうじゃない。
手間もほとんどかかっていない。
なのに、不思議なくらい満たされる。
食べ終わったあと、
小鍋の底に少しだけ残ったスープを眺める。
そこに一日の余白が溶けているようで、
なぜか心が静かになる。
冬の入り口には、鍋がよく似合う。
また近く、鍋にしよう。
2025.12.04 Thu.
距離感の上手な人
最近、「距離感の上手な人」にひそかに憧れている。
必要以上に踏み込まず、でも離れすぎず、相手が心地いいと感じるところに静かに立ってくれるような人。
そういう人と話すと、不思議とこちらの呼吸もゆっくりになる。
先日、近所の人と立ち話をしたときがそうだった。
話の内容はほんとうに他愛ないことで、「寒くなりましたね」とか「猫ちゃん元気ですか」くらい。
それなのに、終わって歩き出したあと、なぜか心がふっと軽くなっていた。
たぶん、相手の「踏み込まない優しさ」に触れたからだと思う。
人は誰でも、自分がどれだけ疲れているか自覚していない時がある。
そんなときに、絶妙な距離で寄り添われると、体の中の緊張が一段階ゆるむ。
人間関係って、会話の内容より「どんな距離に立つか」の方がよほど影響するんだろう。
あの立ち話のおかげで、その日はずっと機嫌がよかった。
距離のセンスって、目には見えないけど、本当に大事なものだと思う。
自分も「距離のセンスのいい」人間になりたいものです。
いっそ来年の目標にしてみようかしら。
2025.12.01 Mon.
心の温度計
最近、自分の心にも温度があるなと思う。
体温みたいにはかれないけれど、たしかに“あ、今日はちょっと冷えてるな”みたいな瞬間がある。
たとえば、朝起きて外の空気が冷たく感じる日って、だいたい心もガタガタしている。
人の言葉に敏感になったり、昔の失敗を思い出してしまったり。
そんな日は「まあ、今日は冷えてるんだな」と思うことにしている。
冷えてるから悪いとか、弱いとか、そういう話じゃなくて、ただの状態だ。
逆に、心があったかい日は、世界の見え方もゆるい。
猫が足元に来ただけで一日良くなるし、散歩中に風が吹いても「お、気持ちいいな」と思える。
こういう日は特に何もしなくても機嫌がいい。
心の温度を上げる方法も、少しずつ覚えてきた。
湯船にゆっくり浸かるとか、好きな音楽をかけるとか、猫のお腹を触るとか。
小さなことで、けっこう変わる。
だから最近は、心が冷えている日は無理に動かないことにしている。
冬の日に厚着するのと同じで、心にも「温め方」が必要なんだと思う。
その感覚を覚えてから、なんだか毎日がちょっと扱いやすくなった。
心はレンジでチンとはいかないからね(なんだ、その締め方は)。
2025.11.29 Sat.
干し芋の誘惑
スーパーで干し芋が山積みになっていた。
秋が深まると、急に食べたくなるやつ。
しかも今年はちょっとやわらかそうで、見るからに当たりの気配がした。
家に帰って、袋を開けてひと切れ口に入れた瞬間、
思わず「うま…」と声が漏れた。
噛むほどに甘くて、
口の中がしずかに満たされていく。
干し芋って、派手じゃないのに心をつかむ。
食べていると、空気までゆっくりになる気がする。
気づけば半分なくなっていて、
「これは危険だ」と大慌てで袋を閉じた。
でも閉じた袋を、しばらく眺めてしまう。
また誘惑されるのがわかっているのに。
冬は、食べ物のやさしい罠が多い季節でもあるよなあ。
悩ましいです。
2025.11.27 Thu.
白菜のやさしさ
買ってきた白菜を切ると、
断面のきれいさに毎回少し感動する。
黄緑から白へ、白からまた薄い黄緑へ。
濃淡のリズムが、うっすら音楽みたいに見える。
鍋に入れる前にしばらくその美しさについ見惚れてしまう。
それから、そっと鍋に入れる。
白菜って、冬のやさしさを全部引き受けている野菜だと思う。
火にかけると甘くなって、スープに溶け込んで、
最後の一滴まで「ぬくもり」を残していく。
鍋を煮込みながら、「人も白菜みたいになれたらな」と思った。
じんわり、やさしく、最後まであたたかい存在に。
うん、でもこれは結構ハードルが高そうですね。